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能ゲーム・能ライフ③谷猿・猿楽

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猿   隻狼のマップには薄気味悪い場所やおぞましい場所が多数あります。個人的に一番不気味なのが菩薩谷から葦名の底、毒溜まりです。これらの場所には険しい渓谷に誰がどうやって彫ったのかわからない無数の巨大な菩薩像があり、あからさまに怖いとか気持ち悪いというか、不自然さからとても不安になります。この場所の主な敵である猿もまた不気味です。 上層にいる猿は仙峰寺にいる山猿と同じ普通の猿なのですが、谷をくだるにつれ鉄砲や刀を使う猿が現れ、やがて赤いふんどしの二刀流の白い毛の猿が現れ、果ては獅子猿です。これらの猿はふつうの猿→人のような猿→神聖を宿した猿→そしてとてつもない力を持った蟲憑きの獅子猿。だんだんと超自然の力を宿していっています。 能の呼び名 これがどうして能と関係あると思うのか。ちょっと能の歴史の話をしましょう。 じつは能が能楽とよばれるようになったのは明治の時代 だそうです。それまでは 猿楽 (散楽の訛り)と呼ばれていたそうです。猿、でてきましたね! 平安時代のころ、猿楽はおもしろい出し物、滑稽な話、雑多な寸劇も多く、祭祀の余興などに演じられていたそうです。やがて室町時代になると観阿弥やその息子の世阿弥らが登場し、洗練を重ね格調の高い芸能となりました。彼らの大成した能が 「夢幻能」 と呼ばれるスタイルです。繰り返しになりますが、この能は死者や霊的なものがシテなのが特徴です。室町の武家や公家などリッチな層の支持を得て、夢幻能を演じる座(グループ)は庇護を受け、現在まで受け継がれたというわけです。 室町時代の能の大成者、世阿弥の著書「風姿花伝」に「上宮大使(聖徳太子のこと)、末代のため、 神楽なりしを神といふ文字の(しめすへん)片を除けて…暦の猿なるがゆえに申楽と名づく 」とあります。これは歴史的には誤りだそうですが、少なくとも世阿弥はそう考えたととらえましょう。 詳しくは次の記事でお話ししますが、奈良の春日大社の影向(ようごう)の松の前で春日権現が翁の姿で降臨し舞を舞ったという伝説から、舞の奉納と猿楽がおこなう祭が平安時代に生まれました。それがだんだんと猿楽の演者が奉納の舞も行うようになっていったそうです。猿楽能の発展にこういうきっかけがあった、それで世阿弥は神楽という言葉を使ったのではないでしょうか。 半分だけ霊的な存在、猿 話を隻狼の猿に戻しましょう。世阿弥の言葉

隻狼で能ゲーム・能ライフ②

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今回は破戒僧本人についてやっていきましょう。彼女は面(おもて)もつけていますし明らかに能度が高いですね。わくわくしますね。 女は怒ると蛇になる 破戒僧の面は般若に似ていますが角がまだ小さく、般若の手前の「生成(なまなり)」と言われるものだと思われます。 般若の系統の面は鬼と化した女 、それも嫉妬に狂った様を表すもので男には用いられません。角の生えた面はすべて女性を表すもので、破戒僧が尼僧だとわかるのはこの面のためです(フーン!の声も高いし頭巾からのぞく髪も長いですが)。よく見られる角がにょきっと生えきった般若の面は「中成(なかなり)」とも言うそうです。 般若でも恐ろしい顔と化していますが、激おこ最高潮になると女は何になってしまうのでしょうか。 口が裂け、念仏を聞く耳も持たない蛇になってしまうそうです 。これを蛇(じゃ)や真蛇(しんじゃ)といい、「本成(ほんなり)」とも呼ばれるそうです。 仙鋒寺と鐘鬼の記事 でも書きましたが、真蛇の面は「道成寺」の演目で専用面として使われるそうです。 解説付きのダイジェスト版動画 があるのでぜひご覧ください。小鼓の緊迫感ある演奏と地を揺るがすような合いの手、道成寺のシテ独特の激しい足運びの乱拍子、なにより愛した人に振り向いてもらえなかった女の執念と激しい怒り、そしてどんなに暴れ狂ったところで愛する人の心が手に入らなかった口惜しさと悲しみは晴れないことへの絶望。短い間にみどころがギュッとつめられています。 おおまかな般若の3種類の姿です。生成にならずとも怨霊としての女の面もあります。時代や面の作家さんによっても違いますし、流派によっても用いる面が違うこともあります。同じ演目でも数種類から演者が選ぶこともあるそうです。 蛇の話だけに蛇足ですが、和装の婚礼衣装で文金高島田を結った頭を覆う布は「角隠し」と呼ばれるそうです。諸説ありますが女は嫉妬で怒ると鬼になってしまうのでそれを防ぐまじないの類だそうです。白い大きなフードのような綿帽子というものもありますね。最近は文金高島田なんて結う人は少ないのでこちらのほうがよく知られているかもしれません。 破戒僧の正体 戦いの記憶「宮の破戒僧」で本当の名前は 八百比丘尼 だと記されています。八百比丘尼の伝承は日本各地にあり、大まかな流れは以下の通りです。 人魚の肉を食べた娘が美しく成長し、いつまでも17~

隻狼で能ゲーム・能ライフ①

考察①で能にちらと言い及んで1年以上が経ちました…。あれから少しばかり能の基本的なことを学び、観劇し(生の能を見たかったのですがコロナ禍の影響で公演は中止になり、代わりに大阪は大槻能楽堂の無観客配信などで能のリアルに迫ってまいりました)、 タクティカル伝奇ロマンス能メカアニメ「ガサラキ」 も見たり、ようやく知識が自らの血肉になりはじめたと感じたので改めて 「能ゲーム・能ライフ」 を書いてまいります(あとこれからは丁寧口調でいきますね、楽なので)。 私個人の考察の注意ですが、あくまで個人の感想文の延長であり、お勉強の発表会みたいなもので、作品のなにかを断定するものではありません。まじで。能という観点から隻狼を見ると面白い共通事項や、影響を受けている可能性のあるものが浮かんでくるよという話です。作中のなにかを断定するようなものではないので、 隻狼を通じて能も知ろう!という文化的読み物として楽しんでください。 直面(ひためん)の忍び、狼 主人公の狼は忍びであるのになぜ顔を隠していないのか、疑問に思いました。 能の主人公(シテといいます)の多くは面(おもて)という仮面をつけた霊的、または神がかった存在 です。逆に脇役(ワキ)の多くは僧侶などの面をつけない姿で現れ、問答を通じてシテの正体を知るというのが能のだいたいの流れです。ゲーム的感覚では謎めいた存在の秘密を探る側が主人公でプレイヤーであることが多いのですが、能の主人公は謎めいた存在です。正体が判明したのちに心情を語ったり大きな魅せ場があるのが特徴ですね。 これを隻狼にあてはめると、神がかった強大な力を持つ存在や怨霊に近い存在となった者に対して狼が戦いという問答を通じ、鬼仏にて記憶と向き合うことで彼らの正体や真意など背景を知り、そして自らの力の糧としていきます。このように狼には 能のワキのような役割があるため、覆面をしていない のではと考えます。 もっとも、ダークソウルやブラッドボーンでも得られるアイテムのテキストからボスやキャラクターのことをうかがい知ることができるので、拡大解釈すればソウルボーンシリーズそして隻狼の戦闘自体が能的と言えるかもしれません。 これを下書きにしている間に隻狼のアップデートが来て「葦名の古忍び」という狼おじさんに 覆面の着せ替えができるようになってしまいました 。 どうすんだよこの項目。 とにか