隻狼で能ゲーム・能ライフ①
考察①で能にちらと言い及んで1年以上が経ちました…。あれから少しばかり能の基本的なことを学び、観劇し(生の能を見たかったのですがコロナ禍の影響で公演は中止になり、代わりに大阪は大槻能楽堂の無観客配信などで能のリアルに迫ってまいりました)、タクティカル伝奇ロマンス能メカアニメ「ガサラキ」も見たり、ようやく知識が自らの血肉になりはじめたと感じたので改めて「能ゲーム・能ライフ」を書いてまいります(あとこれからは丁寧口調でいきますね、楽なので)。
私個人の考察の注意ですが、あくまで個人の感想文の延長であり、お勉強の発表会みたいなもので、作品のなにかを断定するものではありません。まじで。能という観点から隻狼を見ると面白い共通事項や、影響を受けている可能性のあるものが浮かんでくるよという話です。作中のなにかを断定するようなものではないので、隻狼を通じて能も知ろう!という文化的読み物として楽しんでください。
直面(ひためん)の忍び、狼
主人公の狼は忍びであるのになぜ顔を隠していないのか、疑問に思いました。
能の主人公(シテといいます)の多くは面(おもて)という仮面をつけた霊的、または神がかった存在です。逆に脇役(ワキ)の多くは僧侶などの面をつけない姿で現れ、問答を通じてシテの正体を知るというのが能のだいたいの流れです。ゲーム的感覚では謎めいた存在の秘密を探る側が主人公でプレイヤーであることが多いのですが、能の主人公は謎めいた存在です。正体が判明したのちに心情を語ったり大きな魅せ場があるのが特徴ですね。
これを隻狼にあてはめると、神がかった強大な力を持つ存在や怨霊に近い存在となった者に対して狼が戦いという問答を通じ、鬼仏にて記憶と向き合うことで彼らの正体や真意など背景を知り、そして自らの力の糧としていきます。このように狼には能のワキのような役割があるため、覆面をしていないのではと考えます。
もっとも、ダークソウルやブラッドボーンでも得られるアイテムのテキストからボスやキャラクターのことをうかがい知ることができるので、拡大解釈すればソウルボーンシリーズそして隻狼の戦闘自体が能的と言えるかもしれません。
これを下書きにしている間に隻狼のアップデートが来て「葦名の古忍び」という狼おじさんに覆面の着せ替えができるようになってしまいました。どうすんだよこの項目。とにかく能で面をするのは主に霊や神的な存在だということだけ覚えててください。
破戒僧のステージと能舞台
作中では破戒僧(実体)との戦いが最も「能度」が高いと思いました。破戒僧と戦う場所が能舞台の決まりごととよく似ています。どちらも大きな橋を境にしてあの世とこの世が繋がれているのが特徴です。
破戒僧が飛んでくる橋の向こうは源の宮、桜竜の衰弱のため衰えてはいますが「常世(とこよ)※」、永久に変わらない神の領域、理想郷であり、また死後の世界です。一方、狼がしめ縄ロボこと輿入れのお迎えに連れられて来る側は「現世(うつしよ)」、こちらは生きている人の現実の世界です。それを繋ぐ橋が戦闘の舞台とは、神聖不可侵のぎりぎりの領域での攻防でじつに熱い場面です。
能舞台でシテは五色の幕が上がると鏡の間から橋掛かりを渡って舞台へ移動します。この幕は能においてもあの世とこの世を隔てる役割があります。
鏡の間ですが、ここはシテが装束や面を身に着ける神聖な準備の場です。「吾妻鏡」や「大鏡」など史実を記した書物がありますが、ここでいう鏡は「正確にそっくりそのまま映す」という意味ですので、シテが鏡の間で支度をし、面をつけることで役の存在そのものになる、神や霊を降ろすという意味合いがあります。
破戒僧のステージはこんなにも能舞台とそっくりで熱いぞ!という話でした。彼女を討ち破ったのち源の宮の門を開けるのは、能舞台で例えれば五色の幕を手ずから上げて鏡の間へと立ち入る行いでしょうか。「秘すれば花」とは能の大成者・世阿弥の言葉です。秘めごとは人の興味を惹きつけて止まないのです。
つぎは破戒僧のすがたについてじっくりやっていきましょう。
※常世と現世は神道や日本神話の重要な概念。併せて民俗学者の折口信夫の「マレビト」(他の世界から来て富や知識を授ける霊的、神的な存在)という概念を参照するともっと興味深くおもしろいとおもいます。
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