隻狼の聖地?清水寺探訪記③
今回からは音羽の滝以外あまり有名どころじゃない場所の紹介です。そういう場所のほうが記念写真を撮る観光のお客さんが少ないのでじっくり見て回れるのでわたしは好きですよ。清水の舞台から撮る方は多いですが、本来舞台はご本尊に芸事を奉納するための場所なんだそうです。
音羽の滝
奥の院のほぼ真下にある音羽の滝です。ここに湧く水が清水寺の名前の由来であり、また寺の創始者である行叡居士と延鎮上人の2人の修行のはじまりの場所でもあります。原点です。
滝といっても小さく石づくりの社できれいに整備されています。3つの滝の水はどれも変わらないよという注意書きがあります。どの滝から汲んだ水を飲めば○○のご利益があるよ…と伝えられてきたようですが、今は新型コロナウイルス禍ですので参拝者はみんな飲まずに手を清めるにとどめていました。NHKで放送していた『ブラタモリ』で得た知識ですが、音羽の滝は川の途中にある滝ではありません。どうやら付近の地面に断層があるようで、ずれた断層の地下水の通り道から湧いているそうです。山の地面にしみ込んだ水は土に濾過されることできれいになり音羽の滝に流れ落ちます。清い水の秘密は断層だった!ということでした。
阿弖流為・母禮の碑
2週間ほど空けて2度訪れたがどちらの日もたくさんのみずみずしい献花がされていました。碑はよく見ると東北地方の形に彫られています。
田村麻呂が激闘の末に勝利し、2人の助命を請願したが受け入れられなかったことが記されています。
坂上田村麻呂は嵯峨天皇に征夷大将軍として任命され、蝦夷(えみし)と呼ばれた朝廷に従わない人々を平定するために東北へと向かいました。阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)は蝦夷側の指導者で朝廷の進攻に抵抗し、時には朝廷の軍に大ダメージを与えたりと必死の抵抗をこころみましたが801年に降伏しました。8世紀(平安遷都前の30年ほど前、770年くらいから)終わりごろから続いた蝦夷との争いはこれで終結しました。
アテルイとモレが戦を直接指揮したかまではわかりませんが、田村麻呂は彼らをライバルとしてとても尊敬したそうです。天皇に助命を請願し、2人に東北の地の一部を治めさせてはどうかとまで進言したそうです。しかし田村麻呂の熱意むなしく、助命は叶うことなく2人は死刑となりました。
この碑はごく新しいので田村麻呂が作ったのが再建されたものなのかな~と思っていましたが違いました。関西に住む岩手出身の方々でつくられた「関西アテルイ・モレの会」の方々により平成6年に建碑されたそうです。
朝廷との戦いにより東北地方の同族たちの犠牲や村が荒らされることに心を痛め2人は降伏を選んだそうです。敵方の大将である坂上田村麻呂が敬意を持ったのもうなずけるエピソードですね。
千体石仏群
隋求堂の北側、清水の舞台を目指して歩いていると見落としてしまうだろう場所に千体石仏群があります。
ずらり。実際には1000体はないかと思われます。これらの石仏の一部は明治の廃仏毀釈運動が盛んになったときに京都の町に祀られていたのを壊したり撤去されないように町の人々が清水寺へ運んだものだそうです。小さい石仏は全部お地蔵さま(地蔵菩薩)だと勝手に思い込んでいましたが違うそうです。この石仏群の中にも大日如来、阿弥陀如来、観音菩薩などの像があるそうです。
隻狼の仙峯寺にも風車のアイテムが拾える場所などに石仏がたくさんあったのが印象的でした。
隻狼の仙峯寺にも風車のアイテムが拾える場所などに石仏がたくさんあったのが印象的でした。
地蔵信仰
関西では親しみをこめて「お地蔵さん」と呼ぶことが多いです。神道の道祖神と神仏習合されたことや道ばたに祀られてあることが多いので庶民が親しみやすい仏さまです。幼いころに祖母からお地蔵さんは子供の神様やからありがとうって拝んどきやとよく聞かされました。
地蔵はサンスクリット語でクシティガルバ(クシティが「大地」ガルバが「胎内」「子宮」の意味)で意訳して地蔵だそうです。バラモン教のプリティヴィーという地母神が仏教に取り入れられた姿だそうです。
地蔵盆という子供のお祭りの風習があるのですが、これは関西圏に多いんだそうです。規模は大きくありませんが小規模な縁日みたいなもので、地域や自治体によりますが子供がいくとお菓子の詰め合わせとかがもらえる子供のためのお祭りです。
地蔵はサンスクリット語でクシティガルバ(クシティが「大地」ガルバが「胎内」「子宮」の意味)で意訳して地蔵だそうです。バラモン教のプリティヴィーという地母神が仏教に取り入れられた姿だそうです。
地蔵盆という子供のお祭りの風習があるのですが、これは関西圏に多いんだそうです。規模は大きくありませんが小規模な縁日みたいなもので、地域や自治体によりますが子供がいくとお菓子の詰め合わせとかがもらえる子供のためのお祭りです。
千体石仏群とは別の場所(本堂と奥の院の間あたり)に百体地蔵堂があります。子を亡くした親が自分の子に似たお地蔵さんを探して拝むのだそうです。
これは音羽の滝と子安塔の間、お手洗い横の休憩所にある石仏。「奉納」と彫られた石もあったので適当に置かれているのではないと思うのですが、あまりにもバラバラの場所にざっくばらんに配置されてあります。これらの仏さまがどういう縁でここにあるのかはわかりませんでした。
隻狼の仙峯寺は奥へ進むにつれ変若水の実験の犠牲だろう子供の亡骸がそこかしこに配置されてありました。見て気持ちのいいものではない、むしろ気分がわるいオブジェクトです。とくに直接的なつながりや由縁はありませんが、わたしには地蔵信仰が下地にありますので清水寺の石仏を見ると一体一体が仏になった子のように思われます。もちろんばらばらの石仏がすべて地蔵菩薩の像とは限りませんし、勝手な思いなのですが。だけど「すべて子は安らかに」と願わずにはいられませんでした。
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