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調香師に見る黄金樹信仰の揺らぎ

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 前回の記事で黄金律と黄金樹信仰についてかなり詳しく触れたつもりです。次は黄金樹信仰から人の心が離れていった様子を見てみましょう。これは調香師に関連するアイテムを見ていくとよくわかります。まずは進行の誕生からはじめましょう。 黄金樹信仰の誕生 まず、マリカがエルデンリングを宿し黄金樹信仰が生まれた(同時に大いなる意志による黄金律が敷かれた)直後のことです。それまでは死のルーンが存在し 「宵眼の女王」 が率いる神狩りの使徒が神にも死を与えていました。それが運命の死です。神も人や他の生き物と同様に死からは逃れられませんでした。 マリカが女王となった時に大いなる意志からでしょうか、影従の獣であるマリケスを貰い受けます。エルデの獣も大いなる意志の眷獣とあったので、どうやら 神や神人にはしもべとして獣をあてがわれるのが習わし のようです。ラニもブライヴをもらったと話しており、内容からしてしもべであると同時に神人の監視も兼ねているのかと思われます。 ともかく、マリカは運命の死を取り除き、それをもたらす死のルーンを封じるようにマリケスに命じました。こうしてマリカと彼女に連なるデミゴッドは不死となりました。 これが黄金樹を信仰する人々にどう影響したかは明言されていませんが、少なからず長寿になったり健康が増進したのではないかと思います。根拠としては貴人の頭環のテキストに「死なぬだけの長生き」とあります。作中にて神と呼ばれる存在は少なくありません。現世利益と言いますか、黄金樹を信仰するメリットが薄ければあのような大規模な王都ができるほどの力を持たなかったのではと思います。 揺らぐ黄金樹信仰 やがて黄金樹は祈祷・黄金樹の恵みのテキストにあるように力を失くしていきました。黄金樹も永遠の存在ではなかったのです。 まずは前回の記事で述べました 黄金樹循環システム がうまくいかなかったこと。そして大いなる意志の介入により 黄金樹は坩堝的な(混沌とした)存在から秩序立った在り方へと変遷したこと、 つまり 大いなる意志の秩序の下で人間の生命の在り方が定められていったこと 。原因はこのあたりだと思います。黄金律の律の字がまさに決まりごとの意味です。 決定的な原因が何なのか、また黄金樹が豊穣だった時や弱ってきた頃の具体的な年月はわかりません。上記はあくまで私の想像です。しかし調香師の関連アイテムから黄金

エルデンリングを2周して②

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  探索の疲れ①探索する場所がわからない お前はわがままか!探索が好きだって前回の記事で言っていただろうが!そう思われても仕方ありません。しかしながら疲れるのも理由がちゃんとあるんです。聞いてください。 NPCたちに言われるままにストームヴィル城を目指しましたが…強い。敵が強い。初回特典に付いてたホーラルーのポスターの裏にリムグレイブ地図があったのでそれを見て南下してみました。 ゲーム内の地図も同じなのですが、祝福瓶の強化アイテムや武器を強化するための鍛石が取れる坑道、ゲーム終盤に近づくと鍛石を円卓の老婆から購入することができるようになる鈴玉など、ほぼ必須アイテムと言っていいものの在りかが示されています。 濃い茶色にうっすらと染められていたり、洞窟なら黒に近い丸が書かれていたり、地味ではあるもののよく見れば探索箇所が示されています。城や砦などはかなり大きく、街道沿いにNPCイベントが用意されていたり誘導がなされていました。木に変身しているNPCからは声がしたりしてね。 ストームヴィルをすんなり通過できなかった私にとってですが、 リムグレイブはNPCイベントや必須アイテムへの導線が比較的丁寧に敷かれていたと思います。 必須アイテム”は“ 。 では必須じゃないアイテムは…というと、例えをひとつ。2キャラ目プレイ終盤に聖防護という祈祷がリムグレイブにあるのを知りました。一応、その祈祷を入手できる洞窟には松明が掲げられていましたが、平原をトレントで駆けているのです。しかも道なき平原なのです。視点はあちこち動かせるのです。 黄金樹の化身やラスボスなど聖属性の攻撃をしてくる敵は少なくなかったので、聖防護の存在を知った時ちょっとだけおこりました。祈祷を販売してくれるNPCもいますが、彼は黄金律の信者なので神聖なものに歯向かうときにつかう祈祷など売るわけがないんですよね。 そのほかリムグレイブだけで2,3か所の洞窟の見落としがあることを2キャラ目の同じようなタイミングで知りました。 それでもリムグレイブは他と比べてまだ親切なエリアだと思います 。 探索といっても、闇雲に歩き回ったり端から端までチェックして歩き回るのが楽しいのではありません。何か気になるところや手がかりを頼りに向かい、アイテムなり、フレーバーなり、絶景に巡り合ったりする。そういうのが楽しいのです。 エルデンリングはマ

隻狼の聖地?清水寺探訪記③

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今回からは音羽の滝以外あまり有名どころじゃない場所の紹介です。そういう場所のほうが記念写真を撮る観光のお客さんが少ないのでじっくり見て回れるのでわたしは好きですよ。清水の舞台から撮る方は多いですが、本来舞台はご本尊に芸事を奉納するための場所なんだそうです。 音羽の滝 奥の院のほぼ真下にある音羽の滝です。ここに湧く水が清水寺の名前の由来であり、また寺の創始者である行叡居士と延鎮上人の2人の修行のはじまりの場所でもあります。原点です。 滝といっても小さく石づくりの社できれいに整備されています。3つの滝の水はどれも変わらないよという注意書きがあります。どの滝から汲んだ水を飲めば○○のご利益があるよ…と伝えられてきたようですが、今は新型コロナウイルス禍ですので参拝者はみんな飲まずに手を清めるにとどめていました。 NHKで放送していた『ブラタモリ』で得た知識ですが、音羽の滝は川の途中にある滝ではありません。どうやら付近の地面に断層があるようで、ずれた断層の地下水の通り道から湧いているそうです。山の地面にしみ込んだ水は土に濾過されることできれいになり音羽の滝に流れ落ちます。清い水の秘密は断層だった!ということでした。 阿弖流為・母禮の碑 2週間ほど空けて2度訪れたがどちらの日もたくさんのみずみずしい献花がされていました。碑はよく見ると東北地方の形に彫られています。 田村麻呂が激闘の末に勝利し、2人の助命を請願したが受け入れられなかったことが記されています。 坂上田村麻呂は嵯峨天皇に征夷大将軍として任命され、蝦夷(えみし)と呼ばれた朝廷に従わない人々を平定するために東北へと向かいました。阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)は蝦夷側の指導者で朝廷の進攻に抵抗し、時には朝廷の軍に大ダメージを与えたりと必死の抵抗をこころみましたが801年に降伏しました。8世紀(平安遷都前の30年ほど前、770年くらいから)終わりごろから続いた蝦夷との争いはこれで終結しました。 アテルイとモレが戦を直接指揮したかまではわかりませんが、田村麻呂は彼らをライバルとしてとても尊敬したそうです。天皇に助命を請願し、2人に東北の地の一部を治めさせてはどうかとまで進言したそうです。しかし田村麻呂の熱意むなしく、助命は叶うことなく2人は死刑となりました。 この碑はごく新しいので田村麻呂が作ったのが再建されたものなのかな

隻狼の聖地?清水寺探訪記②

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前回は本堂周りの写真を添えておしまいになってしまったので今回はもう少しお話(うんちく)に力を入れます。 清水寺はその敷地の中に 地主(じしゅ)神社 があります。地主神社へお参りするにはまず参拝料を払って清水寺の境内に入り、舞台を渡って本堂の後ろ側へ回りこむ必要があります。敷地が隣接している寺社は多いでしょうが、地主神社の場合は中にあります。「in清水寺」です。もともと地主神社のほうが京都がまだ海だったころから神聖な土地として崇められていたそうですが、どうしてこんな立地になったのでしょうか。 縁結びの神様として超人気スポット。恋みくじがいっぱいある。敷地が小さいこともあるのか今は桜の木は階段真ん中左にひっそりと植えられているだけでした。 神仏習合について 地主神社の場所がとても変わっていることを説明するために歴史のお話をします。日本書紀に書かれているように日本人(大和朝廷の人々といったほうがいいですね)は独自の宗教、神道を信仰してきました。イザナギとイザナミの国産みの話とかです。飛鳥時代になり大陸の先進的な文化知識とともに伝わった仏教を聖徳太子らが篤く信仰したことで貴族らの間に広まりました。 子供のときにしゃかいの授業で習ったときは「へ~」としか思わなかったのですが、神道と仏教を両立してるって不思議ですよね。神道でいうと天皇の一族は神の子孫ですから、神道を否定すると最高権力者の否定になります。だからどうにかして妥協点を見つけないといけない事情があったのかなぁとわたしは考えます。 そこで神道と仏教をうまく(都合よく)解釈したのが 本地垂迹説 (ほんちすいじゃくせつ)です。じつは仏様は神道で信仰されていた神に姿を変えて現れてたんだよ!という説です。 こうして人々は仏様も神様も信仰してきました。これが 神仏習合 の話です。この思想が顕著に表れているのが清水寺と地主神社の位置だそうです。戦乱や明治時代の廃仏毀釈政策、第二次大戦後に神社が国家の庇護を離れてからもずっと変わらずにあり続けているということです。 ちなみに、清水寺のご本尊は千手観音像なのにどうして大黒様もいるのかというと、本地垂迹説はヒンドゥー教の神様に適用されていて、シヴァ神の姿の1つマハーカーラ(偉大な黒い神などの意味)を大黒天として仏教に取り入れられていたそうです。本地垂迹説、日本が初出じゃありませんでした。

隻狼の聖地?清水寺探訪記①

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 かなりお久しぶりです。2年前に仙峰寺は清水寺がモデル(のひとつ)じゃないかなあという 記事 を書いてからかなり経過しました。ようやく清水寺へ足を運ぶこと叶い、ちょうど作中の時期と同じころと思われる秋深い11月某日に行ってまいりました。 おことわり ・以前とかなり口調が違いますが、ですます調のほうが自分らしく書けるので温かい目で見守ってください。かっこつけるのをやめました。前の記事は地図と厄憑きの鐘の話あたりが重要なのでそこだけ読んでもらえれば幸いです。 ・清水寺は モデルの「ひとつ」だと推測しているだけ で絶対これが正しいというわけではありません。例えば甲冑武者がいた高い渡り廊下は清水寺にはありませんしね。 それでは清水寺にバーチャル参詣いたしましょう。 ①参道の坂を上ってまず目にするのが 仁王門 です。コロナ禍も一時期よりは落ち着いて修学旅行生たちが集合写真を撮ってました。 左右に金剛力士像(仁王像)の置かれた門が仁王門ですが、これがある寺院は清水だけではありませんね。奈良の東大寺の南大門は日本最大級で天才的仏師の運慶と快慶のたくましい仁王像のことは社会の授業で習った覚えがあると思います。 仁王様のいる門が作られる理由は境内に邪悪なものが入ってこないようにする厄除けの意味があるそうです。 2000年に入ってから修復を終えたので丹塗りが鮮やかです。 ②入り口から左手、仁王門とさらにその後ろにある西門の横に鐘楼があります。柱の上の飾りが鮮やかです。勝手に突けないようにするためか打木はありませんでした。 鐘楼のすぐそば、写真でいうと右うしろに水子供養のお地蔵様がありました。さらに奥へ進むと千体石仏群があります。これは後程くわしく紹介します。 きっとついても厄は憑かない、はず。 ③鐘楼のうしろに 隋求堂 (ずいぐどう)があります。以前の記事でも書いた 胎内巡り ができるお堂ですが、新型コロナウイルス流行のため現在は体験できません。 胎内巡りは数珠玉のついたロープを伝いながら奥へ進み、最奥にある丸い大きな石に触れたときに願い事をし、外へ出るものだったと記憶しています。お堂を母親の胎内、ロープをへその緒、丸い石を母体にいたときの子(自分)あるいは卵子と見立てると、一連の流れで生まれ変わりの疑似体験ができると言えるのではないでしょうか。 ご本尊は大隋求菩薩、「求めに随(したが

能ゲーム・能ライフ④翁

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前回の結びに能の演目「翁」は能にあって能にあらずと書きましたが、これはどういうことなのか。また隻狼の桜竜の周りにも白木の翁(と黒いの)がいましたね。今回はこれらのお話を進めていきましょう。 「翁」が能にあって能にあらずとは 前回でも少し触れましたが、翁の舞には伝説があります。奈良の春日大社の影向の松に春日大明神が翁の姿で降臨し、万歳楽を舞ったというものです。 短いのに用語がたくさんでてきました。説明をいれましょう。 春日大明神:春日権現とも。権現とは神仏習合の神であり、仏教の神が日本の神道の神として現れること。また現れた神そのもの。ここでは後者ですね。 影向(ようごう):神仏が仮の姿をとって現れること。 万歳楽(まんざいらく):雅楽や唐楽の曲。万歳の名のとおりおめでたい時の曲。 つまり神様がおじいさんの姿でやってきておめでたい舞を舞ったのです 。この伝説から、平安時代にこの松の前で芸能を披露する祭が始まりました。加えて 能舞台のうしろ(鏡板)に描かれる老松(おいまつ)はこの影向の松がルーツ となったそうです。 この祭で舞われるのが神聖な 翁舞 なのです。続いて猿楽や田楽の座(グループ)による余興芸が披露されるようになったそうです。現在でも毎年12月17日に春日若宮おん祭の松の下式(まつのしたしき)と呼ばれる式で雅楽、神楽、舞楽、そして能の奉納が続けられているそうです。 この神聖な翁舞、聖職者によって行われていたのですが、いつしか猿楽師が担当するようになりました。余興であった猿楽能が人気になってきたからだそうです。しかし 元は神聖な儀式なので猿楽師たちが舞うものの「翁」は能にあって能にあらず 、ということだそうです。 翁の特徴・白式尉と黒式尉 天下泰平、国土安穏、子孫繁栄、五穀豊穣を願うのが「翁」です。 尉(じょう)とは老人の意味だそうです。翁の面はほかの面と違い「切り顎」という独特の仕様で、これが猿楽以前から儀式に使われていた名残だそうです。「翁」は別名「式三番」ともいうのですが、白式尉と黒式尉の前にあった父尉(ちちのじょう)が省略されたものの呼び名が変わらなかったため2部構成なのにこう呼ばれるそうです。 面は柔和な老人の顔で「ぼうぼう眉」というぽわぽわした眉毛が特徴です(白式尉のみに描きましたが、ぼうぼう眉の黒式尉の面もあります)。黒式尉は野良仕事でよく日に焼けた

能ゲーム・能ライフ③谷猿・猿楽

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猿   隻狼のマップには薄気味悪い場所やおぞましい場所が多数あります。個人的に一番不気味なのが菩薩谷から葦名の底、毒溜まりです。これらの場所には険しい渓谷に誰がどうやって彫ったのかわからない無数の巨大な菩薩像があり、あからさまに怖いとか気持ち悪いというか、不自然さからとても不安になります。この場所の主な敵である猿もまた不気味です。 上層にいる猿は仙峰寺にいる山猿と同じ普通の猿なのですが、谷をくだるにつれ鉄砲や刀を使う猿が現れ、やがて赤いふんどしの二刀流の白い毛の猿が現れ、果ては獅子猿です。これらの猿はふつうの猿→人のような猿→神聖を宿した猿→そしてとてつもない力を持った蟲憑きの獅子猿。だんだんと超自然の力を宿していっています。 能の呼び名 これがどうして能と関係あると思うのか。ちょっと能の歴史の話をしましょう。 じつは能が能楽とよばれるようになったのは明治の時代 だそうです。それまでは 猿楽 (散楽の訛り)と呼ばれていたそうです。猿、でてきましたね! 平安時代のころ、猿楽はおもしろい出し物、滑稽な話、雑多な寸劇も多く、祭祀の余興などに演じられていたそうです。やがて室町時代になると観阿弥やその息子の世阿弥らが登場し、洗練を重ね格調の高い芸能となりました。彼らの大成した能が 「夢幻能」 と呼ばれるスタイルです。繰り返しになりますが、この能は死者や霊的なものがシテなのが特徴です。室町の武家や公家などリッチな層の支持を得て、夢幻能を演じる座(グループ)は庇護を受け、現在まで受け継がれたというわけです。 室町時代の能の大成者、世阿弥の著書「風姿花伝」に「上宮大使(聖徳太子のこと)、末代のため、 神楽なりしを神といふ文字の(しめすへん)片を除けて…暦の猿なるがゆえに申楽と名づく 」とあります。これは歴史的には誤りだそうですが、少なくとも世阿弥はそう考えたととらえましょう。 詳しくは次の記事でお話ししますが、奈良の春日大社の影向(ようごう)の松の前で春日権現が翁の姿で降臨し舞を舞ったという伝説から、舞の奉納と猿楽がおこなう祭が平安時代に生まれました。それがだんだんと猿楽の演者が奉納の舞も行うようになっていったそうです。猿楽能の発展にこういうきっかけがあった、それで世阿弥は神楽という言葉を使ったのではないでしょうか。 半分だけ霊的な存在、猿 話を隻狼の猿に戻しましょう。世阿弥の言葉