ダークソウル考察 人間の本質と可能性
人間の本質を語るにあたり、ダークソウルという物語のはじまりを簡潔に復習しておこう。不死の古竜が支配していた灰の世界に突如現れたはじまりの火。それにより灰一色だった世界に光と陰、差異が生まれたのである。はじまりの火から王のソウルを見出したのが、グウィン、ニト、イザリスの魔女とその娘たちである。そのあと、人間の祖先である故も知らぬ小人が闇のソウルを見出したことにより、人間の本質が闇となったのである。
王のソウルを見出したグウィンらは強大な力を持っていた。グウィンは太陽の光である雷の力、イザリスの魔女たちは呪術の源流となる炎の魔術のように。ニトは最初の死者となることで死という概念そのものを作り、司ったのであろう。
彼らの力は強力ではあるがその質が変わることはない。しかし様々な力を持ち、時に姿さえ変えるものがいたのだ。それが故も知らぬ小人を祖とする人間である。
ダークソウルの世界において人は様々な姿に変わる。絵画世界には鴉のような羽と頭を持つものや、小ロンドには幽霊となったものもいる。誓約「古竜への道」を極めれば竜のような姿ともなる(これは3のNPCホークウッドのイベントでより明確にされたと言えよう)。白竜シースが不死のウロコを手に入れるために人間を研究材料に使ったのはこのあらゆるものに変化する性質を利用するためである。
少し横道に逸れるが具体例を1つ。3の外征騎士や冷たい谷のボルド、踊り子を思い出してほしい。外征騎士やボルドは獣のような動作をしていたのに踊り子は舞いを踊るような動作をしていた。外征騎士らはサリヴァーンから与えられた指輪の効果でだんだん姿を変え、最終的にはサリヴァーンの獣と成り果てるのである。しかし旧王家、つまり神族の末裔である踊り子にはそのような変化は起こらないのである。
法王の右眼
法王サリヴァーンが騎士たちに与えた魔性の指輪
攻撃が連続するほど、攻撃力が高まる
その黒い瞳は見つめる者を昂らせ、死闘へと誘い
やがて騎士を獣のような狂戦士に貶めてしまう
故に法王は、外征に際してのみこれを与えたという
踊り子の頭冠 (抜粋)
幻のような極光のヴェールは
旧王家の末裔に唯一許された
古い神々の遺産であるという
余談に余談を重ねるが、旧王家の末裔である貴い存在を踊り子という地位の低い存在に貶め、尚且つ彼女の出自がわかるようにわざとヴェールの着用を許していたなら、サリヴァーンは相当に性格が悪いと思われる。そして最後には外征させ捨て駒とするのである…。彼女のソウルとボルドのソウルのテキスト、そしてイルシールでの幻影は涙を誘う。
話を本筋に戻そう。人間はちっぽけな存在であるが、変化する性質と、不死性をも持つ。そして時に莫大なソウルを溜め込むだけの力を持つものもいる。不滅の可能性。グウィンはこれを恐れたのである。その力を抑えるために施したのが「火の封」である。しかしはじまりの火の力が弱まると火の封の力も弱まり、その封の印「ダークリング」と共に人間本来の可変性と不死性があらわになるということである。
(3で誓約アイテム「枷の椎骨」というものがあるが、誓約者の積む者たちが考えるとあるのでここでは扱わないこととする)
ギリシャ哲学の頃より光は正しさの象徴であった。古代エジプトでも太陽は最も重要な神の象徴であった。光は闇を照らし、物事を明らかにする。しかしそこにはもう可能性はない。闇と聞くと暗さ、悪のイメージがつきまとうが、闇は常に可能性を孕んでいる。何が起こるのか何があるのか分からないということは、可能性に満ちているということである。
人間の可能性、それはダークソウルだけでなくフロム作品に通底しているテーマである。
「可能性を否定するのは良くない」
プロデューサーの宮崎秀高氏がラジオ番組でリスナーからの突拍子もない質問をパーソナリティーが否定した時に放ったのがこの一言だそうだ。宮崎氏がいかに可能性を重んじているかが察せられる一言である。
王のソウルを見出したグウィンらは強大な力を持っていた。グウィンは太陽の光である雷の力、イザリスの魔女たちは呪術の源流となる炎の魔術のように。ニトは最初の死者となることで死という概念そのものを作り、司ったのであろう。
彼らの力は強力ではあるがその質が変わることはない。しかし様々な力を持ち、時に姿さえ変えるものがいたのだ。それが故も知らぬ小人を祖とする人間である。
ダークソウルの世界において人は様々な姿に変わる。絵画世界には鴉のような羽と頭を持つものや、小ロンドには幽霊となったものもいる。誓約「古竜への道」を極めれば竜のような姿ともなる(これは3のNPCホークウッドのイベントでより明確にされたと言えよう)。白竜シースが不死のウロコを手に入れるために人間を研究材料に使ったのはこのあらゆるものに変化する性質を利用するためである。
少し横道に逸れるが具体例を1つ。3の外征騎士や冷たい谷のボルド、踊り子を思い出してほしい。外征騎士やボルドは獣のような動作をしていたのに踊り子は舞いを踊るような動作をしていた。外征騎士らはサリヴァーンから与えられた指輪の効果でだんだん姿を変え、最終的にはサリヴァーンの獣と成り果てるのである。しかし旧王家、つまり神族の末裔である踊り子にはそのような変化は起こらないのである。
法王の右眼
法王サリヴァーンが騎士たちに与えた魔性の指輪
攻撃が連続するほど、攻撃力が高まる
その黒い瞳は見つめる者を昂らせ、死闘へと誘い
やがて騎士を獣のような狂戦士に貶めてしまう
故に法王は、外征に際してのみこれを与えたという
踊り子の頭冠 (抜粋)
幻のような極光のヴェールは
旧王家の末裔に唯一許された
古い神々の遺産であるという
余談に余談を重ねるが、旧王家の末裔である貴い存在を踊り子という地位の低い存在に貶め、尚且つ彼女の出自がわかるようにわざとヴェールの着用を許していたなら、サリヴァーンは相当に性格が悪いと思われる。そして最後には外征させ捨て駒とするのである…。彼女のソウルとボルドのソウルのテキスト、そしてイルシールでの幻影は涙を誘う。
話を本筋に戻そう。人間はちっぽけな存在であるが、変化する性質と、不死性をも持つ。そして時に莫大なソウルを溜め込むだけの力を持つものもいる。不滅の可能性。グウィンはこれを恐れたのである。その力を抑えるために施したのが「火の封」である。しかしはじまりの火の力が弱まると火の封の力も弱まり、その封の印「ダークリング」と共に人間本来の可変性と不死性があらわになるということである。
(3で誓約アイテム「枷の椎骨」というものがあるが、誓約者の積む者たちが考えるとあるのでここでは扱わないこととする)
ギリシャ哲学の頃より光は正しさの象徴であった。古代エジプトでも太陽は最も重要な神の象徴であった。光は闇を照らし、物事を明らかにする。しかしそこにはもう可能性はない。闇と聞くと暗さ、悪のイメージがつきまとうが、闇は常に可能性を孕んでいる。何が起こるのか何があるのか分からないということは、可能性に満ちているということである。
人間の可能性、それはダークソウルだけでなくフロム作品に通底しているテーマである。
「可能性を否定するのは良くない」
プロデューサーの宮崎秀高氏がラジオ番組でリスナーからの突拍子もない質問をパーソナリティーが否定した時に放ったのがこの一言だそうだ。宮崎氏がいかに可能性を重んじているかが察せられる一言である。
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